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岡山東工業高校 教諭
難波 紘一・幸矢 夫妻

はじめに

1985年10月11日、徳島いのちの電話主催によるチャリティー講演会が催されました。

講師、難波ご夫妻は、紘一氏が重度身障者であり、高校教師である生活の闘いの中から、今、生かされていることの意味を、集まった(文化センター会場にあふれ、ロビーでも聴いていただいた)2100余名の人々に、静かにしかし確信をもって語られました。

広報委員会では、このテープのお申込希望が多く、いまだにお問い合わせもあり、当日、聴くことのできなかった方々にも、この内容をお伝えしたいと、テープおこしをし、再録することにしました。

難波と申します

難波ご夫妻の顔写真

先程岡山から無事に到着いたしました。

私は進行性筋萎縮症という病気に罹りまして、もう7年と10ケ月になろうとしています。自分自身は、だいたい1年位で分かっていたのですが、当時35〜36歳で、人生いよいよこれからという時でした。4人の小さな子供達のことを思うにつけても、家内にだけは絶対に隠しておこうと思い、ひた隠しにしておりました。

ところが4年目位になって、彼女はだんだん私の変化に気づき始めたのです。最初の中、足だけが悪いと思っていたようで、月一度、大学病院に連れて行ってくれました。その中次第に手の方も不自由になって来ると、「ひょっとしたらこれは?」と思い始めたようです。そこで私に内緒で主治医の先生に電話を掛け真相を突き止めたようです。

お葬式の準備

「お宅のご主人の病気は、現代の医学では原因をつかむことのできない病気です。従って治療法も確立されていません。どれ位生きられるかということは、個人差があって一概には言えませんが、成人された方が罹った場合は、だいたい3年位と今まで言われています。でも今、いい薬が開発されつつありますから、希望を持って下さい。」聞き終った彼女は、ショックでしばらくは茫然としていたようです。その時、ふと頭の中に一つの事が浮かんだのです。これは大変だ、ボヤボヤしてはいられない。先生の話によれば平均3年、主人はもう4年目に入っているのだから、間もなく死ぬかも知れない、とすると、お葬式の準備もしておかなくては、と思い、会社も辞めてコツコツとお葬式の準備を始めたそうです。

そういう訳で、今から3年11ケ月前、私は彼女によって秘かに葬式の準備をされた訳です。しかし有難いことに、用意していただいた葬式も実行することなく、今日もこんなにうれしい思いで、徳島に来ることができました。

私は、この病気のことが分かって以来、自分に残された時間というのは余りない、それだけに一日一日を神様からのプレゼントだとそう思って過ごしてまいりました。これからも尚しばらくの間、生きることが許されると思います。これからの一日一日も、大切に過ごして行きたいと思います。

進行性筋萎縮症

この事があってから、彼女は今まで何も知らなかった「進行性筋萎縮症」という病気について勉強を始めました。同じ病気の人を訪ねたり、闘病記や遺稿集をむさぼるように読みあさりました。その中の一冊を読んだ時、私はとても大きなショックを受けました。

それは「終りに言葉なき言葉ありき」という本です。この本を書いた人は、玉川よ志子さんという女性です。その人のご主人、玉川桂さんが、31歳の時に発病します。進行性筋萎縮症にもいろいろタイプがあり、中でも最もむごいといわれるのが「筋萎縮性側索硬化症」です。玉川桂さんはその病気に罹り、3年程で飲み込むことが難しい状態になってしまいます。やがて舌も唇も動かなくなり話すことが出来なくなります。
沈黙の状態に陥ってしまったご主人を必死で看病する奥さんは、意志を汲み取るためにあらゆる努力を重ね、色々と試みるのですが一つまた一つと機能が失われて行きます。もう自分の意志を動かせる所は皆無だと思った時、右足の親指がほんの少し動かせることを知り、そこに装置を附けてイエスかノーで答えられる短かい言葉を発する訳です。しかし残念ながら進行性の病気ですから、間もなくそれも出来なくなってしまいます。
最近はパソコンなどの普及で、瞼に装置を附けて、まばたきで意志を交信している人も多いのですが、玉川さんの場合は、非常に早い時期に、まばたきをするための筋肉もやられてしまいます。だから目は塞がったままです。お見舞いの方が見えると、奥さんが瞼を開けます。視力があるので誰かを確認するのですが、声を出して「ありがとう」ということはできないのです。パイプで流動食を流し込み、人工呼吸器で生命を維持していても、耳は聞こえるのです。テレビをつけっ放しにして置くと、新米の看護婦さんは消してしまうそうです。気づいた奥さんは、やにわに詰所へ駆け込み「この人は生きてるんです、分かるんです、人間なんです!」と抗議する場面が出て来ます。

終りにことばなきことばありき

しかし、ご主人は最後まで一言もしゃべることなく亡くなった訳です。「終りに言葉なき言葉ありき」その最後の最後まで言葉を発しなかったけれど、私には言葉のない言葉があったのですよ、という意味の題名なのです。では、どんな言葉があったかというと、人間が生きていること、例え意識があろうとなかろうと、沈黙の状態にあろうと、命ある限り、それ自体表現していることではないだろうか、僅か35kの痩せ細った体を、丸太のように横たえていても、人間としてのぬくもりが存続する以上、彼の精一杯の自巳表現がそこになされ、人間が存続しているということだけで、最低限ぎりぎりの表現に外ならない。生きることは表現することであり、生きることは愛であるということを聞き取ったと奥さんは言っているのです。

死にたい

読み終えた時に、私は深い感動に襲われました。同時に激しいショックを受けました。やがて私が辿るであろうその最後の姿が、これでもか、これでもかと出て来るのですから、忘れることも見逃すこともパスすることもできない強烈な印象として、2年数ヶ月経った今も、脳裏に焼きついている訳です。そういう意味で、正直言って読まなければよかった読むべきではなかったと思いました。やがて口がきけなくなり、さまざまな辛いことが襲って来る。そうなったら家族の者も大変です。耐えられない、今ならまだ手が動く、飲み込む力もある、毒薬でもあおって死んでしまおう、と思いました。

私は、だんだん、だんだん、死ぬことが自分にとっても家族にとっても一番いいことなんだ、と考え始めました。そう考え始めると泥沼へ引きずり込まれるように落ち込んで行きました。

救われた私

しかし、ほんとうに有難いことに、一週間後に私はその苦しみから救われました。

ちょうど同じ頃に家内は別の本を読んでいました。三浦綾子さんの「泉への招待」という本でした。エッセイ集ですから、どこから読んでもいい本でした。パラパラめくっていると、ふと「誰のための命」が目に止まりました。命は誰のためにあるのか?私はこの文章を一気に読み終えた時、目からウロコが落ちる思いがしました。
 三浦綾子さんがある教会で聞いた牧師さんの説教で、その牧師さんがある時期カナダに滞在したことがあり、その時の体験を語ったものでした。

教会に、とても明るい顔をしたカナダ人の夫婦が来るのです。この人達は、どうしていつもこんなに明るいのだろう。と思って家庭訪問をしたそうです。行って見て驚きました。その夫婦の愛する子は、重度身障者で、体だけは大人に見えるが、口もきけず子供同然だったそうです。牧師さんは思わず尋ねました。
「あなた方は、こんなに重い現実を抱えていて、よくもこんよに生き生きしておられますね。」と、するとこう答えたそうです。「先生、私達は、この子がこうやって一生懸命生き続けていてくれるから、この子を中心に支え合い励まし合い愛し合って生きて行けるのです。この子は神様から私達に与えられた慰めであり、祝福なのです。と……

私の生命は誰のためにあるのか

この話に続いて牧師さんは言いました。「みなさんは、自分の命は誰のためにあるとお思いでしょう。ほとんどの方は、自分の命は自分のためにあるとお思いでしょうが、そうではないのです。自分の命は他の人のためにあるのです。自分の命は自分のためにあるのではないのです。」こう言ってこの話を終ったそうです。聞き終った三浦さんは「私は、脳天を打たれたような気がした」と、告白しております。

私達は、自分の命が自分のためにあると、思っている限り、一生懸命財産を貯えようとします。地位を築こうとします。名誉を求めます。知識を貯え力を強くしようと思います。しかし、人間の欲望は限りがありません。どんなに財産を貯えても、地位を登りつめても果てしないものですから、返って来るものは虚しさだけなのです。そうではなく、自分の命を他の人のために使おうと思う時に、思いもかけないような人生が実を結んで行くのだということを彼女はこの時、悟ったようです。

彼にしかできない仕事

実は、私はもうーつの大切な事を悟ったのです。それは、この重度身障者の子はこれからもしばらく生き続けると思います。しかし、彼はどんなにがんばって生き続けても、社会に出て働き、結婚して家庭を営むというようなことは考えられません。この世的価値尺度からいえば、何の役にも立たない、生きているのがムダではないかと言われても仕方のない存在です。
では何故、そのような子に生命が授かったのでしょう.。それは、彼にしか出来ないたった一つの仕事を与えられているからです。彼は生き続けることによって、両親をこんなにも明るく、生き生きと生かすことができるのですね。彼にしか出来ない仕事があるからこそ、彼はこの世に生まれて来たのです。他のどんな子をこの両親の所へ連れて来てもダメでしょう。
「この子がこうやって−」というこの両親の言葉に意味がある訳です。

私達は、誰でも、この世の中にムダに生きているのではないのです。その人にしかないその人にしかできない、たった一つの仕事、人によっては二つも三つも出来る仕事があるかも知れませんが、そのたった一つの事があるから、私達はこの世に生を受け、その仕事が完成するように、多くの人が気づかっていてくれるのです。私たちは一人ぼっちではないのです。みんなが、目に見えない所で、お互いに気づかい気づかわれながら生きているのです。

たった一つの仕事

このたった一つの事が何であるかということを、早く見つける程、その人の人生は、ムダのない人生になって行くわけです。

私は、この進行性筋萎縮症のために、病状が進んで来て更に酷くなるでしょう。4人の子供たちは、今、私と一緒にこの病気を闘ってくれますが、もっともっとひどくなったら、彼等は一層団結して、お父さんを盛り立てるために協力し合ってくれると思います。そして、そういう事を通して、他の子供さん達が得ることの出来ない、大切なものを得ることによって、一人一人がそれぞれ、自分の人生を切り拓いて行ってくれることでしょう。そのこと一つを取って見ても、私がこういう状態で生き続けることは、意味あることなのだということが、だんだん分かって来た訳です。以来、私は、自分で自分の命を始末しようなどという不遜な思いは、抱かなくなりました。そして、失われて行く機能を悲しむのではなく、まだ残されているものを、120%有効に用いて、意欲的に生きて行こうという気持ちに駆り立てられているわけです。

私の毎日の生活

それでは、毎日どんな生活をしているかという話をします。

私は、まだ岡山県立東岡山工業高校で社会科を教えることが許されています。一週間16時間の授業をしております。学校は8時半に始まります。8時半に間に合おうと思うと7時45分に家を出なければなりません。7時45分に出るためには、起きてから少なくとも1時間の余裕が必要ですが、私は更にもう1時間早く起きることにしていますから、5時45分が起こしてもらう時間です。子供たちを見ていると、寝坊した時など登校15分前位に起きても、髪のセットまでして、すばやく出掛けて行きます。この情景を見ていると、人間というのは、ほんとにすばらしいなぁと思います。

生命を守る闘い

ところが、私は自分で起き上がれません。朝5時45分になると、家内が体を起してそのまま真裸にします。そして、ガラス戸を開け雨戸を開けて、裸療法という体操を30分間やります。西勝造さんという人が考え出した、西式健康法の六大法則の一つです。3年間、毎朝々々続けています。冬はまだ真暗で、突き刺すような寒さですが、休むことなく続けています。ですから私も家内も、この3年間風邪を引いた覚えがありません。

私は、こうして自分の生命を守るための闘いを、朝からしなければなりません。裸体操を終えると、服を着せてもらうことになりますが、私は何一つできません。全部してもらいます。が、一つだけ協力できることがあるのです。それは、ズボンをはかして貰う時、脱がして貰う時、脚を折り曲げて貰い、ヒジを立てて貰い、満身の力を込めて、お尻を5mmほど浮かすことが出来るのです。そのスキに彼女が、バッとはかしたり脱がしたりしてくれるのです。ほんの一瞬、1秒か2秒間です。しかしこれが出来るということは、
私にとって非常に嬉しい事なのです。でも次第にこれも難しくなって来ました。此の頃は、だいぶ掛声を掛けないと上がらないのです。

夜更けてパジャマに着替えさせて貰う時に夫婦喧嘩などしたら大変です。私が一生懸命やろうと思っても彼女がやってくれなかったり、私の方がふてくされて協力しなかったりということが年に何回かあります。腹が立って腹が立って、「顔を見るのもイヤだ、あっちへ行ってくれ」などと言ってしまったら最後、彼女は行ってしまいます。私は、天井を向いたままじっとおしおきを受けることになります。5〜6分経つとやって来て、もう分ったでしょ、と言わんばかりにさっさとやってくれます。この時の惨めな気持ちと言ったらありません。

人間というのは、今まで出来た事が出来なくなる程辛いことはないと思います。私も全部自分で出来たのです。しかし、今は出来ません。そのための辛い惨めな思いをするわけです。

忍・忍・忍です

ところが、そういう事をくり返して行くとチエがついて、だんだん賢くなって来ました。どんなに辛いことがあろうと、家内にだけは逆らってはいけない、ということが分かりました。そういう時は、日記に「忍の一字」と書きます。それを集会の場所などで話しますと、或る日、家内が「あなたは、講演会で忍の一字だなんてカツコイイことを言ってましたけど、私なんかそんなもんじゃないですよ、毎日が、忍、忍、忍なんですよ。」と呪みつけられました。ほんとうに、そうだろうと思います。重度障害者を家庭に抱えるというのは大変なことです。そういう中で私たちは尚、感謝して生きて行けるのです。

学校での生活

家内が、私をおんぶして車に乗せてくれます。そして運転して学校へ到着します。

職員室は2階にありますので、先生がおんぶして運んでくれるのです。ここで彼女は、やっと私から解放される訳です。学校での私は、先生や生徒たちに面倒を見て貰います。授業が始まると、生徒たちが迎えに来ます。一人は私をおんぶして、一人は教科書やノー卜の入った籠を押して行ってくれます。ところが最近腕が弱って、長いことおんぶして貰えないのです。仕方なく腕を縛って貰って階段を上げて貰うのです。教室に到着すると、椅子が用意されていて、そこへ座らせて貰います。これで50分間一歩も動けません。板書はどうしているかというと、週番の生徒が、私のノートを見て全部書いてくれます。私は、授業していると言っても、自分がやっているのはほんの僅かで、周囲の援助のお蔭で授業をさせていただいているという感じです。学校の先生が黒板に文字が書けないというのは、「おまえは教師として失格なんですよ、休職なさったら?お辞めになったらどうですか」と言われても仕方のない存在です。しかし、尚こうして勤められるのは、学校長の深い愛情と理解があればこそのこと、そして、重い障害を持った教師と生徒達が、共に生きて行く社会を作ろうと目ざしていることに共鳴して、
私の本望を叶えさせてやりたいと、毎日支援してくれる同僚の先生方の親切援助の賜です。生徒達も毎日々々こまめにめんどうを見てくれますので、安心して学校へ行けるわけです。そのどれか一つでもそっぽを向いたら、私はもう学校へ行く気はしなくなると思います。そういう恵まれた職場で授業をさせていただいておりますので、一時間一時間の授業は、生命を懸けて全力投球をしなければならないという意気込みで、毎日々々やっている訳です。

家庭で

いよいよ、夕方になりますと、彼女が迎えに来ます。5時頃家に戻って、夕食は家族揃って食べます。子供達とのコミュニケーションの場はこれ以外ないからです。食事の後は4畳半の小さな部屋に連れて行かれ、そこで手紙を書いたり、本を読んだり授業の用意などします。12時すぎる頃、台所仕事を終え、子供達の相談事から解放された家内がやって来ます。待ちかねたように私は次々と彼女に命令します。散乱した物を片附けて貰う訳です。30分や1時間はすぐにたち、更に相談しなければならない事がいろいろあります。そうこうする中に2時位になってしまいます。翌朝はもう5時40分には起きなければなりません。急いで布団に入りますが、そのまま朝までずーっと眠ることはできないのです。30分か1時間もすると、布団が重くなります。普通の人なら寝返りを打ち、足で蹴ったり手で払いのけるのですが、私にはその力はもうないので、側に寝ている家内を起こします。彼女はガバッと起きて、私の体をあっちへ向けたりこっちへ向けたりしてくれるのです。いわゆる熟睡していないのです。少ない睡眠時間で熟睡していなかったら、普通の人ではとても持ちません。
私達はそういう生活を3年近くしています(寝返り打てなくなって2年余)それでもこんなに元気です。どうしてでしょう?それはもう一つ生きるための努力をしています。それは「食餌療法」です。

生菜食療法

大阪八尾市に甲田光雄さんという内科医の先生がいらっしゃいます。大阪大学を出て内科医院を始めたのですが、自分の弱い胃腸がどうしても治りません。医者でありながら可笑しいと思い、学生の中から研究を続けて、とうとうニシ医学に突き当ったのです。ニシ式健康法というのは、断食をやって体質を改善するのですが、難病の人がいきなりやると、命に関ることがあります。そこで甲田先生は難病の人も心配なく断食と同じ効果を上げながら出来る治療法はないものかと、試行錯誤の末、到達したのが、「生業食療法」でした。

私達は3年前に、甲田先生に出会ってこの療法を始めました。どういうのかといいますと、まず朝ご飯は食べません。これは胃腸を晩から翌日昼まで10数時間休息させるためです。そしえ昼と晩の食事をします。メニューは昼夜全く同じで、緑の菜っ葉を3〜5種以上を250g、水を加えてミキサーでドロドロにして飲みます。それから大根100g人参120g山芋30g、これを全部すり下して、葉の物250g根の物250g合計500gの生野菜を一度の食事に食べます。主食は玄米ですが、煮炊きせずに食べる直前に粉にして、私が80g、家内が40g食べます。家内は健康ですから、あえて食餌療法をする必要はないのですが、私が甲田先生からこのメニューをいただいた時に、「お父さんは、これから一生これを食べて行くんだ、長いマラソンに出るのだから、ランナーが途中で挫折したり倒れたりしたら可哀想だから、私が伴走者として一緒にやって見よう」と、やり始めました。2〜3ケ月すると、隠れていた病気が次々よくなって、彼女は体質がすっかり変わってしまいました。ですから今も続けています。味は塩だけです。私は1回6g彼女は4g、他の物を食べませんからそれでちょうどいいのです。お茶は柿の葉、あと生ピーナツを10粒、生ゴマを10g、生、生と言いましたが、「生菜食療法」といいます。

生という字は、生きるという字です。生命の生という字です。生きている物を食べるので、こんなに生き生きと生きられるのです。一回の食事カロリーは500、2食ですから1000カロリー、一日1000カロリーで私達は3年間こんなに元気に生き続けることができました。普通の人は、一日3000〜4000カロリーのべつまくなしに食べて、肥った肥ったと悩むわけです。私達にはそういう悩みは全然ありません。一年中これしかないので、今晩のおかず何にしよう、などと悩む必要もありません。でも食べる楽しみを奪われてしまいました。カレーライス食べたい、ラーメン食べたい、という楽しみは完全にシャットアウトされました。その代わりに生きる歓びを得ました。これ程大きな歓びはありません。これからも一生、こうやって生きて行こうと思います。

この食餌療法によって何人もの難病の人達が治っています。ガン、筋ジストロフィー、ベーチェット病、白ナマズ、ダツゼイコウカ症が治った人、24人が体験集を発表しました。今、甲田病院には、4歳〜10歳の筋ジスの子供達が入院して、治りたい一心から生菜食療法で病気と闘っています。既に2人の子供が治りました。このような素晴らしい食餌療法によって、私達は今日もこうして生かされているわけです。

難病の人たちとの出会い

難しい病気に罹っている人は、他にも沢山おります。私と同じ病気の人も居れば、他の病気の人もいます。私たちは、そういう人達に沢山出会うことができました。その人たちはどんな気持ちで毎日を過ごしているかということで、一編の詩をご紹介します。

三日間の健康をください

神さま、おねがい!
三日間の健康を 私に与えてください。
以前の健康な姿を 三日間だけ。
そうしたら 私はベッドに戻って来ます。
そして 永遠の花園へ
第二の幸福を求めて 旅立ちます。
一日日
夕ンスの中の衣類を
全部出して 虫干しし、
押入れの夜具を全部、日光に当て
シーツ、カバーすべて洗濯をする。
毛布類は クリーニングに出す
夜具を充分買い揃える
昼から 家の中の大掃除をする。
夜は、ミツエと一緒に風呂に入る。
手の先から足の先まで
きれいに 洗ってやる。
洗髪も 念入りにやる
風呂から上がり ツメを摘んでやる。
夕食は ミツエの好きなカレーライスを
三人で囲む。
主人とビールを噂みながら
ちょっとスキヤキもよかろう。
ミツエの好きな ドリフターズに
テレビをセットし
笑いながらの食事、
夜は ミツエとゆっくり語り明かしたい。
学校のことや 勉強のことや
将来のこと……
二日目
ミツエと主人の下着類を 全部洗濯をし
つくろい物をする。
ミツエの小さくなった衣類を
ちょっと 手を入れて、
着られる物は いつでも着られるように
四季を通じてここ三年間着られるように
衣服を整えて買ってやる
ミツエを整髪につれて行き
可愛いいヘアスタイルにする
夕食は モモ揚げでウイスキーを
主人と食事を楽しむ
ミツエにもおすしをつけて食べさせる
今夜も ミツエとゆっくり
語り明かしたい。
三日目
いよいよ 最後の日ですね。
親子3人 街へ出る。
いろいろ見て廻り 目の正月をする。
そして ミツエの学用品や
身の廻りの必需品を すべて買う。
主人にも 記念のネクタイを、
そして きれいなレストランで
親子揃って 好みの食事をする。
暖かいお別れのお食事をね、
三日間の健康を どうもありがとう。
もう私には 死ぬことだって何だって
いつ来ても幸せです。

スモン病が悪化し、病院のベッドにクギづけされて、ジーッと天井を見て暮しているお母さんの詩です。家に残した小学生の娘と、ご主人を思いながら、もし、三日間だけでももとの体に戻ることが出来たら、という切ない思いを詩ったものです。大それた事は一つも言ってていません。誰もが平常の生活の中で毎日していることです。洗濯したり掃除したり、ごく当り前のことばかりです。裏を返せば、そういうことが毎日出来るということが、どれ程大きな恵みであるかということです。このお母さんは、健康がいかに尊いものであるかということを訴えているのです。

健康に恵まれながらも、色々な思わしくない事柄に見舞われたりすると、私達はたちまちガックリと落ち込んでしまい、希望を失ってしまったりするのが常です。一番恐しいのは絶望することです。絶望することほど恐しい事はありません。

私はこういう重たい病気に罹っています。お先真暗です。ある意味では―――。しかし私は、絶望しておりません。この病気で、あらゆる苦しみを受けました。夫婦のいさかい、子供達の登校拒否、いろんな問題などを一冊の本にしました。「生まれて来てよかった」という本です。この本の終りの方に「妻を讃える詩」という詩を載せています。この詩を通して私の希望を語って終りたいと思います。

妻をたたえる詩

妻よ、あなたは松山の三津の近くの
商家に生を受けました。
あなたのお父さんは小学校の

先生をしておられました。
あなたのお父さんは日本が戦争に

まけると同時に教職を退かれました。
あなたのお父さんは、あなたのおばあちゃんとあなたのお母さんの

小さな店の仕事を本格的にやりはじめました。
あなたはそのご両親の愛に包まれて、

二十年間をすくすくと育ちました。
あなたはそのご両親の愛にこたえて

二十年間を幸福に暮しました。
あなたは十七歳の年にイエスを主と告白し、

キリスト教の信仰を得ました。
そんな時、私はあなたに出会いました。

わたしたちは結婚する事が幸せであると信じて将来の生活設計に胸をはずませておりました。
その幸福の絶頂の時に、わたしとあなたに突然大きな試練が襲ってきました。
あなたの一卵性双生児の妹さんが白血病で、突然、天にとられてしまいました。
あなたの分身が

この世から引き裂かれてしまいました。
それは今までにない無惨なできごとでした。
泣き狂うあなたを、この身に受け止めた

わたしはその時一つの決心をしました。
召されていった水城さんの分まで

私はあなたを幸福にしてやるぞ。
私はあなたを普通の人よりも

二倍も三倍も幸せにしてやるぞ。
私はかたくかたく心に誓いました。
妻よ、今でも私のその気持はかわりません。
私たちは多くの方々の祝福を受けて結ばれました。
私たちの原点は主イエス・キリストです。
私たちの家庭は幸福でいっぱいでした。
私たちに次々と子供が与えられました。

まず男の子が与えられました。

次に女の子が与えられました。

また女の子が与えられました。

そして最後に再び男の子が与えられました。
また私たちには健康が与えられておりました。
つつましい家庭ながら

必要なものは全て与えられました。
私とあなたとは本当に幸せでした。
あなたは口を開けば

「私はあなたと結婚して本当によかった」と、言って私を喜ばせてくれました。
あなたはその頃、毎晩寝る前に祈っておりました。

どうか神様いつまでもこの家族の幸せをお守りください。
あなたのお祈りはそんなお祈りだったと思います。
そんな私たちの家庭に大きな陰が

さしはじめたのは六年前のことでした。
あまりにも過酷な神様の試練が

私たちの家庭を覆いました。
元気そのものであった私は

だんだん歩けなくなりました。
病院を転々とするうちに私は自分の病気の真相を知るようになりました。

−一一進行性筋萎縮症一

私はこの真相をあなたに隠して

毎日を一人で悶々とすごしておりました。
私の病気はやがて両手に進行してきました。
その頃のあなたは祈る事をやめてしまいました。寝床に入った私の背中ごしにあなたは坐っている。

うす暗い部屋の明りに照らされたあなたは、たった
一人でするめを引き裂いて冷や酒をあおっている。

そんな毎日が続くようになりました。

「私はあなたを普通の人よりも二倍も三倍も幸せにしてやるぞ」

そんな私の決心も一瞬にしてたじろぐほどにあのありさまは冷たくわびしいものでした。
かつてあなたは口を開けば

「私はあなたと結婚して本当によかった」
と言ってくれたのにその頃のあなたは口を閉じてしまい

「結婚してよかった」とは、言ってくれなくなりました。
かつてあなたのご両親は、自分の娘に幸福になってもらいたいと、私との結婚を許してくれました。
でも私はあなたを幸福にする事はできなくなりました。
私はあなたをますます不幸にするばかりです。
あなたは年の瀬もおしせまった1981年思いあまって私の主治医にたずねました。ついにあなたは本当の病名を知りました。私の病気が確実に死に向って進行している事をしらされました。
しばらくしてあなたは白旗をかかげて神様に降伏したのです。
その時からあなたは神様に全てをゆだねたのです。
私もとっくに神様に全てをゆだねておりました。
二人ともイエスを主と信じる信仰の原点にもどることができたのです。
現実の生活はつらくてきびしいものですが私たちの家には今、喜びがあふれています。

私の母は七十二歳で健康です。

子供たち四人もすくすくと成長しています。

長男は歩けなくなった私を背負えるほどになりました。

娘たち二人はあなたの食事の準備を手伝えるようになりました。

次男は私と一緒に留守番ができるようになりました。
私たちの家には今、希望があふれています。

私がよくなる事を願いつつ
子供たち四人は私の治療食を交替で作ってくれるのです。

私がよくなる事を願いつつ
あちこちであなたは無農薬自然食の野菜をかきあつめ、夜遅くまでかかって食べられるように洗ってくれるのです。
これら全ての事が希望へ希望へとつながっていくのです。
私たちの家は今、励ましであふれています。

多くの方々が励ましの便りをくれます。

多くの方々が励ましの電話をくれます。

多くの方々が励ましの祈りをしてくれます。

多くの方々が励ましに立寄ってくれます。

多くの方々が夕食を共にしてくれます。

多くの方々が泊っていってくれます。
その中になにげない一言が私たちを力づけその中のさりげない動作が私たちを支えてくれるのです。

このような恵まれた日々が続く中で
あなたは再びあのなつかしい言葉を口に出すようになりました。
「私はあなたと結婚して本当によかった」と。
妻よ、私はあなたをたたえます。
妻よ、私はあなたをたたえる詩を歌い続けます。
妻よ、私と再び立ちあがろうではありませんか。
希望の日々に生かされてまだ見ぬ神の約束を信じつつ
今日もあすもいつまでも、大きな幻を求めつつ
妻よ、私と一緒に大胆に前進しようではありませんか。

ここで幸矢夫人に交替・・・・・・

一つの詩を紹介します

私たちは 夜に生まれた

そして 闇に生きている

そのよどみの中で

光を見たこともない

風に吹かれたこともない

よるべない 多くの悲しみと

充たされぬ 渇きは

凍てついた体を蝕む

私たちは 夜の流れに埋もれて行く

出会い

こんなに重たい人生を歩んでいる若者がいます。一息一息がまるで海で溺れている時のような、そんな息苦しさを味わいながら生きている人達がいます。私たち健康な者は気がつかないのです。私は主人が体に障害を持ったことによって、いろんな人と出会うことができました。その中で、どうしても障害者の問題について考えざるを得ません。

あるお母さんの話をします。A子さんという37歳の小児マヒの娘さんを介助しています。二人暮しのご家庭を訪ねた時、お母さんは「若い中はずい分苦しい思いをしました。車イスで街を歩いていると、言うことを聞かないとあんな子になるよ、と後指をさされたり、無念の思いで過ごして来ました。でも今は平安です」と、おっしゃいました。信仰によって救われ、今は平安です。と言うその方と、お互いに励まし合い慰め合って生きましょう。とお別れしましたが、三カ月後に自殺しました。私は耳を疑いました。けれども事実でした。A子さんの首を締めて、その後毒を飲んだのです。劇薬だったために、喉を通る前に吐き出して、辛うじて一命をとり止めました。

そういう時に、新聞などは障害者の娘を殺して母子心中とか、子殺しなどと評論します。でも同じ障害者を抱える私にとっては、批判することはできません。何故かと言いますと、もう一日悲しみが長く続いていれば、もう一日苦しみが長く続いていれば、同じ事が私の家でも起る可能性が充分あるからです。

神様いつまでですか

私は、体重41kgで主人は46.5kあります。私は生菜食をしていますからとても元気です。でも、ものすごいハードスケジュールが続いて疲れ切っている時、主人をおんぶします。その時、ふと「ああ、神様、いつまでですか」と叫んでしまうことがあります。障害者を家庭に抱えるということは、毎日がギリギリの状態です。

病気のことは 主人が申しましたけれどももう少し具体的にお話して見ます。

この病気は、いろんな筋肉がどんどんやられて行きます。手足指1本に至るまで、自分では動かすことが出来なくなります。瞼も下ったままです。視力があっても自分で瞼を上げて見ることができません。内臓に至っては先に申しましたように、溺れるように苦しいのです。栗原さんという人がいます。この人は病気が浅い間は、眠ると呼吸が止まるから眠っている時だけ胸を押して貰います。が、病状が進んで来ると、24時間一生懸命、誰かに押して貰ってないと息が止まってしまうのです。始めは両親だけで出来ましたがとてもダメで親族を呼び、看護婦さんを呼び沢山の方の手助けによって生きたそうです。口はというと全く物が言えなくなります。飲み込むこともできません。そのことは本で知っていましたが、ある病気の方を訪ねて、現実をまの当りにした時は、ぞっとしました。大さじ一杯のお茶を飲むのに、吸い飲みに入れ、片手を後にやって体を支えて口の端から少したらします。それから両手を後について、口をゆすりほっぺたを伝って喉へ流し入れるのです。それを見た時に、飲み込めないということはああいうことなのかと思いました。

おしやべり

私たちは、延々としゃべります。でも、おしゃべりが出来ないということは、どんなに無念なことでしょうか。そういうことから、一つ観点を変えて見ると、しゃべれることが当り前だと思っている私たちは、言わなくてもいいことを、沢山言ってはいないでしょうか。悪口だったり、おべっかだったり、へつらいだっだり、さげすみだったり、ののしりだったり、そういうことを吐いて日を過ごしてはいないでしょうか。でもお話が出来ることを、感謝なんだ、恵みなんだと思った人は、人が励まされるような 慰められるような、支えられるような、うれしくなるような言葉だけを、選んで話すことでしょう。私たちも常にそうありたいものだと思います。

今日が最後

難波ご夫妻の写真

主人は、いつ死ぬか分らないという惨い病気ですから、今をベストとして生きると申します。と言いますと、ある同病の方が、それは甘いです。ぼくは今日を最後として生きています。と言われました。私達健常者がそんな生き方をしたら、どんなにかすばらしいだろうなあと思います。

今日はキリスト教の集会ではありませんので、キリスト教の話はいたしませんが、私達の寄って立つ所がキリスト教であり、み言葉に出会うことによって、こんなに平安な日々を過すことができるようになりました。初めからこの重い現実を、さらりと乗り越えて来た訳ではありません。何で私はこんなしんどい人生を送らなければならないだろうか、何で私だけが、こんなに苦しい思いをしなきゃならないだろうか、苦しい思いをしているのは私だけだ、と思っていました。でもそれから抜け出ることが出来ました。それは、イエスさまが、おまえの荒い息づかいが聞こえる程近くに頬と頬がふれ合う程近くに、汗の臭が伝わる程近くに、一緒にいて同じ苦しみを負っていてあげるんだよ。と教えて下さいました。そのことから、立ち直ることができました。この病気を通して、今まで見えていなかったものが見えてきました。健康であるが故に気がつかなかった、豊かであるが故に気がつかなかった、自己中心的であるが故に気がつかなかった、ほんとうの恵みを知ることができました。

必ずしもキリスト教でなくても、この病気を通してこんなにも平安な人生があったということを、皆さんにお示しするために、もう一つの詩をご紹介します。
障害児を持つ、お母さんの詩です。

私の子供に生まれてくれてありがとう

私の子供に生まれてくれてありがとう
あなたが 私の子供でなかったら、
石を投けられた者の痛みの深さも
知らなかったでしょう。
障害の重い人たちが
天使の心を持つことも
知らなかったでしょう
ほんとうの愛も、思いやりも
富める人の 貧しい心も
貧しい人の 豊かな心も
あなたが、私の子供でなかったら
知らずに過したはずでした。
私の子供に生まれてくれてありがとう。

人が人になる

私には、「この病気がほんとうに、恵みでした」と、今は思っています。人が人になって行く、夫婦が夫婦になって行く、そういう思いをさせられました。健康な時の夫婦というのは、それなりに努力していればすむことです。けれども、このように障害者になりますと、ギリギリの状態で生きて行くことによって、むしろ、ほんとうに夫婦とは何か、どうあるべきか、いろいろと考えさせられ、夫婦が一体になって行くということを、経験させられました。

始めに主人が申しましたように、名誉欲だとか財産欲だとか地位欲などが、いかにくだらないものであるかということが分って来ました。病気を得たために、いろんなものを捨てることができました。真実を求めて生きて行くことが出来ます。そして、その真実は何か、それは、一つの悲しみに出会うことによって、他の悲しみが見えて来た。一つの差別を受けることによって、他の差別が見えて来たのです。私たちの今後の人生は、神様が、悲しむ者と共に悲しみ、泣く者と共に泣きなさいと示して下さいましたから、健康な時よりも一層、泣く者と共に泣き、悲しむ者と共に悲しむ人生を歩んで行きたいと思っています。

病むことによって、一歩人間になって行くそういう思いをしております。
(テープおこしの労を八巻吉子さんがとって下さいました)

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