社会福祉法人 徳島県自殺予防協会
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生きること、愛すること 「人は生きるために生まれてきたのだから」

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エッセイスト
大石 邦子

おことわり

この講演会抄録は、10月16,17,18日に阿南市、徳島市、三好市で開催された講演会に、講師の大石邦子先生が乳癌で急遽手術を余儀なくされ、来徳出来なくなり、病床で徳島のために録画されたものをDVD講演会として開催し、その一部を広報委員会で文章化したものです。

「ナイチンゲールと薔薇(ばら)の花」

大石邦子さんインタビューの様子

高校時代に読んだ一冊の本があります。ズーと何十年も心の隅にその本がトゲのように突き刺さったまま、私の中で生き続けてきていました。どうしてこれが「世界の名作だ」と呼ばれるのか、私には全く分かりませんでした。非常に後味が悪い、大人の童話のような短編です。オスカー・ワイルドの「ナイチンゲールと薔薇の花」という短編です。簡単な内容ですので、ちょっとかいつまんで話してみます。

貧しい若者が恋をします、一度でいい、あの女性と踊ってみたい。でも身分が違います。これは百年前の話しです。世界中に翻訳されて、百年以上読み継がれてきた本の一篇です。「あの女性と踊ってみたい。」でも若者は貧しく、女性は良い豊かな家庭のお嬢さんでした。身分が違います。

でも、女性は言います。

「いいわよ、赤い薔薇の花束を持ってきたら、踊ってあげてもいいわよ」

しかし、この冬枯れの野に薔薇の花なんか、どこにも咲いていません。薔薇の花を買うお金なんて、この貧しい若者にはありません。ぼろアパートの壁により掛かって若者は自分の身の不幸を嘆いていました。そのぼろアパートの窓辺の梢(こずえ)でナイチンゲールという小鳥がさえずっていました。小鳥はこの若者の願いを何とかしてかなえてあげたい。この若者の心をいやしてあげたいと思いました。

小鳥に出来ることは精一杯きれいな音色
でさえずって、あの若者の心を癒すこと。それ以外、小鳥の出来ることはありませんでした。精一杯のどをふるわせて、さえずっている小鳥を若者は窓辺に寄りかかって見ながら呟きます。

「いいよな、鳥なんて、ああやって朝から晩まで『ピィピィピィピィ』と言って鳴いていればいいわ。気が楽なもんな」と呟きます。小鳥は自分の思いが届かないことに「何とかしてあの若者の願いを叶(かな)えるためには、薔薇の花を見つけてあげるしかない」と思います。そして意を決して冬枯れの野に飛び立ちます。

枯れ果てた薔薇の木を見つけると、薔薇の木に寄って言います。「薔薇さん薔薇さん、どうかあなたの花を咲かせて下さい」

薔薇の木が言います。「何を言っている、今真冬だよ、花なんか付けられるわけが無いじゃない。仮に花を付けられたとしても、私の花は赤い花じゃないね。」

ガッカリして小鳥は飛び立ちます。薔薇の木を見つけると、また寄って行って言います。「薔薇さん、薔薇さん、どうかあなたの花を咲かせて下さい」「おかしなことを言うね。こんあ冬枯れの野で花を付けられる木なんてあるわけないじゃないか。」

小鳥は失望の中で震えながら尋ねます。
「どこかで赤い花を付ける薔薇の木はないかしら」

薔薇の木が答えます。
「ああ、そうだね。あの木は赤い花かも知れないよ。」言われて行ってみたら、なんと全く気がつかなかったあのボロアパートの、若者が寄りかかっていたアパートの窓辺に一本の枯れ果てた薔薇の木がありました。

「薔薇さん薔薇さん。どうか、あなたの花を咲かせて下さい。」「何を言っている。この寒さの中で私の葉脈は凍り付き、こうして息絶え絶えに生きているだけで精一杯だ。花なんか付けられるわけがない。」小鳥がもう徹底的な失望の思いの中で訴えていると、薔薇の木が言います。
「ああ、そうだね。一つだけ方法があるかもしれない。月が出て、沈むまでの間にあなたのその温かな胸を私の一番太いトゲに押し当てて、そのトゲからあなたの温かい血を私の葉脈に注いでくれたら、あるいは私の葉脈は生き返って花を付けることが出来るかも知れない。」「やります。やります。どんなことでもやります。だからどうか薔薇の花を咲かせて下さい。」

その夜、小鳥が薔薇の木の一番太いトゲに胸を押し当てます。薔薇の木が言います。「もっと強く、もっと強く!」小鳥の血が凍り付いた薔薇の葉脈に注がれていきます。小鳥は目がかすんでいきます。息が苦しくなります。力が抜けていきます。

薔薇の木が言います。「もっと強く、もっと強く!」そして小鳥の血が全て薔薇の葉脈に注がれ尽くされたとき、小鳥はポトリとその根方に落ちました。既に小鳥の息は絶えていました。

次の朝目覚めた若者はびっくりします。それは見事な赤い薔薇の花がそこに咲いていたのです。若者は驚喜し、その薔薇を掴み取ると、丹念に薔薇の花束を作り、その下に転がっている小鳥の骸(むくろ)などには目もくれずに、その薔薇の花束を持って自分の大好きな、思いを届けたい女性の許に駆けつけます。

女性はその夜行われる舞踏会の準備をしています。きれいなドレスを着て、出かける準備をしていました。若者は息を弾ませて言います。「赤い薔薇の花束を持ってきました。どうか私と一度踊ってください。」

女性が言います。
「その薔薇の花、この私のドレスには似合わない。それに彼は私にこの胸飾りをくれたの。」隣に一人の若者が立っていました。

貧しい若者は言いようもない屈辱と悲しみと憤りの中で、持ってきた薔薇の花束をわしづかみにすると、家を駆け出し、力任せにその路上に打ち捨てます。すると向こうからやって来た三頭立ての馬車がその薔薇の花束を踏み砕いて通り過ぎて行く。こういう物語です。

どうしてこんな後味の悪い物語が百年もの間、世界中に翻訳され、読み継がれて来た名作と呼ばれるものか、私には全く分かりませんでした。けれども、何か気になって心の隅にトゲのように突き刺さったまま、それから何十年も私の心の中にありました。

この物語が新たないのちを持って私の前に立ち上がり、もつれた糸がほどけるように、これが本当の意味かもしれないという思いが私に注がれたのは、母が亡くなったときでした。

あの薔薇の木の根元に冷たくなって転がっていた小鳥の骸(むくろ)こそ、母ではなかったか。小鳥がいのちを賭(か)けて咲かせた赤い薔薇の花を、自分の思いが思い通りに行かないからと言って、路上にうち捨てたあの若者こそ、この私ではなかったか。私のために人知れず流されてきた母の涙を私はどれだけ知っているだろう。私のために人知れず流されてきた父の涙を私はそれだけ知っているだろう。

その涙の中で咲かされた薔薇の花束を、私は
「自分だけがどうしてこんな目に遭わなければならないのか、どうして私だけがこんな目に遭わなければならないのか」という思いの中で、どれだけ路上に打ち捨ててきたか。

冷たくなった母に取りすがって泣きながら、私は言いようもない後悔の中で、本当に自分のことだけしか考えないで生きてきた自分の半生を思いました。

一変した人生

私も二十一年間は皆さん方と同じように健康でした。この若さも自由も健康もこのままどこまでもずっと続いて行けるような錯覚の中で、やがてすてきな男性が現れて結婚して、子供を産んでなんて、というような漠然とではありますけれども、そうした人並みの未来を夢見て生きていたような気がします。

でも私たちは誰しも明日のことは分からないからこそ生きておられるのではないかと思います。此の世の中に一人として、自分の明日を予測できる人はありません、私もまさか自分がこのような境涯になろうなどとは夢にも考えて見たことがありませんでした

でもある日突然、私の人生は一変しました。その日もいつものようにいつものような一日が始まるはずでした。しかし私の乗ったバスが、横丁から飛び出してきた小さな車をよけようとして急ブレーキをかけました。私はそのときすさまじい車の音と、将棋倒しのように私の上に押し被(かぶ)さってくる満員の乗客の悲鳴を聞きました。私が二本の足で立っていた最後の声でした。

そのまま意識がなくなり、病因で意識が返ったとき、私はもう以前の私ではなくなっていました。朝のままの手もありました。朝のままの足もありました。目で見ると朝と少しも変わりのない自分の手があり、足があるのに胸まで何かを掛けられてしまうと、私の手はどこにあるのか、私の足はどこにあるのか、まるで分からないのです。

意識が返ったということで、先生方は裸の私の体に針を刺したり、お湯を押し当てたり、氷を押し当てたりなさいます。でもそういう感覚も全く分からないのです。
「本当に分からないわ」
と言って、チクチク針を刺されます。

すると痛いという感覚のみが、針を刺されているという感覚がないのです。お湯を押し当てられても分かりません。氷を押し当てられても分かりません。私はそれまで自分の目の前に自分の手があり足があるのに、自分の意志で動かすことの出来ない体があるなんて、ただの一度も思ってみたことはありませんでした。

お風呂に入っても、お湯の温かさを感じない体があるなんて、想像したこともありませんでした。でも私の体は今でもお風呂に入っても、胸から下はお湯の温かさを感じません。

そうした私の衝撃に更にとどめを刺すような事態が告げられました。それは排泄の機能もまた麻痺していることでした。おしっこの感覚が分からないのです。私はまだ若かったです。人の前で裸になどなったことは一度もありません。学校の身体測定の時ぐらいしか人の前で裸になどなったことのない私の体に一日六回、ちょうど三十センチぐらいの細いゴムの管を(膀胱に)差し込んでいる。そしておしっこをとらなければ生きて行けない体であることを知らされたのです。私はもう人間でなくなったような思いがしました。

「こんなのがあるはずがない、これは何かの間違いなのだ。」私は必死になって自分自身にそう言い聞かそうとしていました。でも一ヶ月経ち、六ヶ月経ち、一年経ってもまだ私の病状は回復しませんでした。

「人間は何故、こんなになってまで生きていなければならないんだろう。何のために人間は此の世の中に生まれてくるんだろう。」身動きの出来ない病室の天井を見つめながら、毎日毎日そのことばかり考えていました。

でも分かりませんでした。体は毎日毎日焼かれるように痛みます。身動きの出来ない人間は、寝返りの出来ない人間は褥瘡(じょくそう)、床ずれができます。床ずれは臭いがします。生きながら腐っていく自分の体のにおいを私は毎日かいでいなければなりませんでした。

生きる意味を求めて

二十一歳、二十二歳、二十三歳、友達は皆きれいになっていきました。日に日にきれいになっていきました。「旅行に行った」とか、「恋人が出来た」とか、「お見合いをした」とか、青春を謳歌(おうか)している友達の姿が入ってきます。寝返り一つ出来ない、おしっこの感覚も分からないで寝ていなければならない私の周りは、遠い青春のまっただ中でした。

こんな体でどんな生きる意味があるんだろう。生きる意味が見出せなくなった者ほど、生きる意味を求めてあがきます。私には本当に生きる意味が分からなかった。何のために人は生まれ、何のために人は生きていくのか。私には全く分からなくなっていました。

私の母は病弱で、今考えれば私よりもっと苦しかったかも知れない、病弱で私に付き添うことが出来ませんでした。

私には家政婦さんが付いていて、何もかも家政婦さんがしてくれましたけれども、私はお母さんに付き添われている患者さんがうらやましくてならなかった。しかし母は一週間に一度は、どんなにつらくても面会に来てくれました。どんなに痛みが激しくても、どんなに熱があろうとも一週間に一度、母は必ず面会に来てくれました。その母を待ち続ける、一週間待ち続ける私でした。

身動き一つ出来ない人間には、家政婦さんに嫌われたら生きていくことが出来ません。看護婦さんに嫌われたら生きて行くことが出来ません。嫌われないために、ひたすらいい患者であるための努力をしなければならない。我慢しなければならない。

一週間待ち続けて、母が私の病室に現れ
たとき、一週間会いたくて会いたくて待ち続けていた母がそこに現れたのに、私はいい患者であるために我慢に我慢を重ねたという悲しみが、心の中で破裂してしまい、いちばん大事な、いちばん会いたい母に向かって破裂してしまい、「もう私の人生なんか、何もかも全てが終わり、私の人生なんか終わり」母に向かって当たります。

「全ては終わり」 は 「全てが新しく始まる」 へ

すると母は、涙ぐみながら言いました。「『何もかも全て終わり』っていうことは、『何もかも全てこれから新しく始まる』ということでもあるんじゃないの」

「何が始まるというの、こんな体で何が始まるというの」

私は言いようもない、震えるような怒りの中で頭が破裂しそうでした。でも、「あの母の言葉は真実だった」と、今は思います。「始まったからこそ、今私はこうしてここに生かされている。」

そう思うとき、「あの母の言葉はまさに真実だった。あれは私に言ってきた言葉ではありましたけれども、母が自分自身に言い聞かせた言葉でもあったのではなかったか。」

母はガンを病んでいたのです。ガンを病み、再発を繰り返し、余病を繰り返しながら、そんな中に突然寝返り一つできなくなってしまった娘を目の前にして、「この子をかかえて、何があっても生き通す」という母の覚悟の言葉ではなかったか、私よりももっと過酷な新しい一日一日が母にもそのときから始まっていたのかもしれないと思います。

私の両親は明治の最後の生まれです。明治の最後ではあっても、明治の人というのはどこか違います。寡黙(かもく)です。お世辞なんか言えなくて、喜怒哀楽の余り現さずに、ひたすら家族のために働き続けました。

私は両親に「勉強しなさい」とか、「成績がどうだ」とか、言われた記憶が全くありません。少しはほめてもらっても良いのにと思っても。しかし成績のことでほめられたり、叱られたり、注意されたりしたことは一度もありません。「うちの親は放任主義なのかなあ」と思っていました。他の友達はお習字で「金賞をもらった」、「銀賞をもらった」というだけで、お部屋に立派な額に入れて飾ってもらったりしているのに、私は何をもらってきても、ほめられた記憶は全くありません。「あんまり成績なんかに関心がないのかなあ」と思ったりもしていました。

当時は未だ日本はどこの家も貧しくて、一つの町に一軒か二軒位しかお金持ちの家などありませんでした。私が子どものころ皆貧乏でした。貧乏だったから、ことさらに貧乏だなんていうことを考えることもなく、皆生きていました。どこの家も子だくさんで、五人六人は普通で、十二人も兄弟がいるという家もありました。

それでもみんなあの貧しさの中で、それなりに一生懸命生きて大人になっていったことを思います。兄弟が多いから当然子どもの兄弟げんかも始まります。

私は今つくづくあの時代を懐かしく思うんですけれども、兄弟が多い中で兄弟げんかをしながら、けんかの仕方や仲直りの仕方や、引き際や、そういうものをしっかり身につけてから学校に出たり、社会に出たりするものですから、けんかをしたからと言っても、相手を傷つけたり、相手を殺してしまうようなことは、私はほどんど当時見たことも聞いたこともありません。

どんなに激しくけんかをしても、外に行けば弟をかばい、妹をかばい、貧しさの中で分かち合い、あの貧しさの中で家庭の中で、先ず人間として生きていく基本的な社会性を私たちは身につけていく、そんなように思います。

放任主義だと思い、全然子どもたちのことなど気にしていないと思っていた父や母ではありましたけれども、今なって考えてみると、私たちが人生の岐路に立たされたとき、当時は全く気づきませんでしたけれども、そこには必ず父の姿があり、母の言葉があり、父の言葉があったということを今頃、私は気づかされています。

父の死

私の父は「白髪頭の飲んべえ校長」と言われていました。父の頭の中には仕事にこととお酒のこと以外、何もないように子どもたちの目には映っていました。

そう思っていた父が、私が倒れたとき、当時はまだ車なんてありませんでしたから、バスの定期券を買って、学校が終ると、真っ直ぐに私の病院にやってきました。そして私が枕元に椅子を引き寄せると、力強く言いました。
「大丈夫だ。お父ちゃんがいる。お父ちゃんが百まで生きて、おまえとお母ちゃんの面倒はちゃんと看て、それからお父ちゃんが死ぬんだから。御前たちは何も心配する必要はない」

しかし決して私の目を見ることはありません。間違って私と目が合うと、父の目にはみるみる涙がにじんでいきました、多分不憫(ふびん)で不憫で、寝返り一つ出来なくなってしまった娘の顔を父は正視できなかったんだと思います。

それなのに毎日学校が終わると通ってきて、「大丈夫だ。お父ちゃんがいる」

そう言って私の顔は見ないで帰って行きました。

私はその父の背中に向かって、いつも泣きながら、追いすがるように言いました。「お父ちゃん、うちに帰りたい。お父ちゃん、うちに帰りたい。おんぶして、おんぶして連れて行って」

すると父は決して振り向かず、ベッドの感覚のない私の足首を布団の上からしっかりと握ると、言います。

「うん、直ぐに帰れるぞ、もう直ぐに帰れるぞ。大丈夫だ」

そう言って振り向かずに帰って行きました。そうした父の心の中に、どんな悲しみがあったものか、私は親になったこともありません。どんな思いで、身動き一つできなくなってしまった娘を見ていたか、私にはそのときは分からなかった。
父のいのちを縮めるほどに、子どもを思う親の思いが強いなどと思ってみたこともなかった。

ある日きれいに髪を洗い、きれいにひげまで剃って誰に看取られるのでもなく、浴槽の縁にもたれるようにして、父は亡くなっていました。

「発病から死に至る時間、一分間」と記されていました。心臓麻痺でした。百までも生きて、私と母の面倒を看てくれるはずだった父が、あっという間に亡くなって、残された母は、――母が最初のガンの手術を受けたのは、今の私より十五歳以上も若い時でした――最初のガンの手術を受けたとき、「あと半年のいのち」と言われたのです。

その「あと半年」と言われた母が、「この寝たっ切りになってしまった娘を残して死ねない」というすさまじい母親の一念であったと思います。医学の常識を超えて、本当に長い歳月を私のために生き続けてくれました。

それなのに私は自分の心がコントロールできなくなると、当たる人は母しかなく、どれだけ母に当たり散らしてきたか。しかし母はどんな時にも愚痴一つ言わず、現実を受け容れて私の葛藤を受け止めてくれました。

母の死

私の家には木蓮(もくれん)の大木がああります。白い花が咲きます。この小さい町のいちばん大きな交差点の角に私の家はありまして、この交差点を通る人には皆見える木蓮の大木です。白い花がこの交差点の角を埋めます。

その日、私は母と二人百円の缶ビールで乾杯をして、お花見をしました。母はお酒が全く飲めません。粕漬(かすづ)けさえ食べられない、顔が直ぐ赤くなります。(大酒のみの父と一滴もお酒の飲めない母、どちらも大変だったろうなあと思いますけれども)

それでその乾杯した百円の缶ビールをどうしたわけか、母は白木蓮の花の下に静かに祈るように注ぎました。そして
「来年もまたきれいな花を咲かせてやって下さい」と言って、木に向かって手を合わせたのです。

その夜でした。突然、母は私の胸に倒れ込んできて、そのまま再び目を開くことはありませんでした。

母が亡くなったお通夜の日、母の師範学校時代の同級生が言いました。

「くうちゃん、初めて言うんだけどね、お母さんが言っていた。『親だなんて言ったって、あの子にしてやれることは何もない。せめて当たられてやることぐらいしか。いちばんつらいのはあの子なんだから』、お母さんがそう言っていたよ」

そう言われたとき、私はもう既に冷たく固くなった母の胸に取りすがりながら、詫びても詫びきれない思いの中で、ひたすら泣きじゃくっていました。

すると、その泣きじゃくる私の背中を撫ぜながら、お通夜でしたから、お坊さんが言いました。

(私はキリスト教徒ですが、家はまだ古い仏教の家です)

「後悔のない親との別れなんてないんだよ、悔いのないお母さんとの別れなんかないんだよ」

そんな冷たい娘だったからだと思います。

母に会いたい!

母が亡くなって、母は全然、夢にも現れてくれませんでした。「夢でも良いから出てきて」、「冷たい娘だったから、わがままばかり言っていた娘だったから、母は夢にも現れてくれないんだ」と思いました。
(中略)

何年か前、豪雪の冬でした。ちょうど冬の初めにインフルエンザに罹(かか)って、それが治ったような治らないような状態で、冬に突入しました。みるみる空が見えなくなっていきます。

私は冬は一切講演やなんかには出ませんので、空が見えなくなってしまうというのはものすごい重圧です。冬、車いすでこの家で暮らすとき、せめて空だけが私の外と繋(つな)がった景色です。その空が見えなくなってしまうということは、何かに押しつぶされたような重圧にとらわれます。

雪が一間ぐらい積もって、窓の三十センチぐらいしか空が見えなくなると、雪をかかせてもらって、また空が半分ぐらい見えるようになると、なんかホッと救われたような感じになる、そんな冬でした。

「お母さん」という言葉がテレビや外から聞こえてくると、涙がこぼれるようになりました。「母」という文字を見ただけで、涙がこぼれるようになりました。
私は病気だと思いました。心を病んでいると思いました。

「もう限界!」、生きることにも考えることにも「私は限界!」と思いました。私なりに頑張って生きてきた。痛みに耐え、孤独に耐え、そして様々な思いをこらえながら精一杯明るく生きようと頑張って生きてきた。でももうこのぐらいで良いじゃないか。私は私なりに出来ることを精一杯やっできた。もう親しい人は皆向こうへ行ってしまった。私ももう向こうへ行きたい。

夜のガラスの窓に顔を押し当てて、曇ったガラスを指で拭うと、雪の上を雪が吹きすさびます。

「迎えに来て!迎えに来て!」。心の中で叫びます。でも誰も迎えに来てくれません。

その日はなんだか頭が変になりそうでした。私は突然、「此の世に本当に神様とか仏様とかおられるんだろうか。きっとそんな人いないんだ」、「神様なんて、仏様なんて、此の世にいないんだ」、怒りのような思いが胸の奥から突き上げてきて、そんな思いにとらわれました。

「でも、もしかしておられるのかもしれない。もしおられるのなら、私の最後の願い、三十数年耐えてきたこの私の最後の願いを聞き届けてもらいたい。明日の朝、このまま目が開かないように、どうか此の世に神様や仏様がおられるのなら、明日の朝、このまま目が開かないように・・・」。そう願って床に就きました

母がいた

母がいたんです。どこか分からない、きれいな森の中にベンチがあって、そこに母がチョコンと掛けていました。膝の上にカーキ色の小さなリュックを抱いて、母がいたんです。夢のようでした。

「なーんだ、こんなとこにいたの?ものすごく探したんだから」

私は母に駆け寄っていきます。

母はおついの着物を着て、そして何気なくチョコンと、どうちゅうことのないような感じでカーキ色のリュックを膝の上にちょこんと抱いていたんです。

「こんなの私が持つから・・・・・・」

そのリュックを持ち上げた瞬間、それは鉛の固まりのように重くて、私は前にのめりそうになったんです。

ようやくのことで、そのリュックを抱き上げて振り返ったとき、私のいちばん好きな笑顔をたたえて、母はこちらを向いていました。それだけの夢でした。

けれども、私は夢で母に会えたということで、なんだか一晩で別の人格になったように元気が出て、「なんだか、また一年ぐらい頑張って生きられそう!」、そんな気分になっていました。

でも変な夢。なんだか妙にそのリュックの重さがこの脇腹にですね、残っていて、母にとったら何の重さも感じないようにチョコンと抱いていたリュックなのにものすごい重さなんです。考えられないぐらいの重さだったんです。私はようやく抱き上げた。

「なんだったんだろう」、私は「親というものは亡くなってからでも、子どもを支える者なんだろうか」と思いました。

でもその夢のことがずっと心にありました。私の知り合いで心理学と哲学を上智大学で学生に教えている(外国人の神父さんでもあるんですけれども)先生がありました。時々電話で話したり、東京に行ったときにちょっと会ったりしているお友達なんですけれども、その先生から電話があったとき、私はそのリュックの話しをしたんです。

「いやいや先生、どうしたっていうことのないリュックなんですよ。それを私が持つと、それはものすごい重さです。私もう転びそうになったんですよ。

悲しみの重さ

すると先生は即座に、こう言われたんです。

「それはあなたを思うお母さんの悲しみの重さだよ。あなたを思うお母さんの悲しみの深さだよ。でも大丈夫、あなたはそれを抱き留めたのだから」

私は受話器を耳に押し当てたまま、凍り付いたように動くことが出来ませんでした。そして反射的に思い出した一つの出来事があります。

まだ私が若かったとき、こんな私を「好きだ」と言ってくれた一人の男の人がありました。今とは時代が全然違います。私がどんなに「好きだ」と言われても、彼とは手一つ握ったことがありませんでした。

それから私は間もなく倒れて、倒れた後も、彼は献身的に私を支え続けてくれました。でも、重い病人を支え続けるということは本当に大変なことです。親子でも夫婦でも兄弟でも姑さんでも、十日二十日ならまだしも、重い病人を支え続けるということ、これは決して一人の力では出来ようはずがありません。どんなに優しくしたいと思っても、介護する人が疲れてしまったら優しくすることが出来なくなっていく、それは限界があります。

彼もまた私の病気の重さに疲れ果て、やがて私の前から去っていきました。私は彼に対して感謝こそあれ、恨みなんて全くありません。「これで良かったのだ」とも思いました。

でも彼からもらった沢山の手紙が残されました。彼は病院に来れないときは、必ず優しい手紙を書いてくれました。

それをどう処分していいか、私には分かりませんでした。寝たきりの人間には厖大(ぼうだい)な手紙を破る力はありません。結構「紙を破く」には力がいります。私はそれを油紙にしっかりと包んで、しっかりと赤紐で結んで取っておきました。

初めて外泊が許されたクリスマスイブの日でした。私はその手紙の束を持って家に帰りました。当時はまだ車いすなんて乗れませんでしたから、だっこされて家に入りました。

私は真っ直ぐ台所の隅の裏口の所にある風呂の焚き口のところに連れて行ってもらい、腹ばいに降ろしてもらって、皆台所から出てもらいました。

そして病院から持ってきた、彼からもらった沢山の手紙を一枚一枚、そのお風呂の焚き口で燃やしていきました。手紙はみるみる炎になっていきました。

その炎を見ていたら、なんだかだんだんだん悲しくなって、涙が止まらなくなりました。そのうちに涙だけでなく、胸の奥の方から熱い固まりのようなものがこみ上げてきて、恥ずかしいことですが、「アオオン、アオオン」と泣きじゃくりながら、包んできた紙も縛ってきた紐も全部燃やし終えました。

そうやって、みんな大人になっていくんだから

背後の台所の外で、何かおろおろする人びとの気配を感じてはいましたけれども、全部燃やし終えたとき、母が入ってきました。

母がなんだかちょっと怒ったように、着物の裾(すそ)をピリッと音を立てるようにして揃えると、私の前に座りました。そして泣きじゃくっている私の頭を撫ぜるように、何度も何度も私の頭を撫ぜながら、腹の底から絞り出すような声で言いました。「そうやって、みんな大人になっていくんだから」母の膝が震えていました。「母の膝が震えている、母が泣いている、私の悲しみのために母が泣いている」、震える母の膝に私は顔を押し当てたまま、「これ以上母を悲しめてはいけない」と思い、母の膝の上で涙を拭って、顔を上げた日のことを思い出していました。

「あのリュックの重さはあなたを思うお母さんの悲しみの重さだ」と言われたとき何故か、あの時のあの母の涙もあのリュックの中に入っていただろうか、そんなことを思わされていました。

失って知った大切なもの

父が亡くなって37年、母が亡くなって15年、遥かな歳月が過ぎました。私は失うまで、失ってみるまで本当に大切なものに気づくことが出来なかった、愚かな人間だったと思います。

親の愛も健康も歩けるなんていうことも私は一度も感謝したことがなかった。歩けるということがどんなにすごいことかなんて、思ってみたこともない、手が動くということがどんなにすごいことかなんて、想像したこともない。夏になれば汗が出る、夜になれば眠り、眠っていてさえ寝返りを打つことだって出来ます。そんなこと当たり前だと思っていた。いあ、当たり前とすら思わなかった。

当たり前なんていうことは何もない

しかし今、自分の半生を振り返るとき、此の世に当たり前なんていうことは何もなかったと思います。特に父や母の愛の深さに気づかないままに、私の悲しみのために突然命を終えるほど悲しんだ父の心の中のどれほどを、私は知っているだろう。私のためにガンの再発を繰り返しながら、生き続けてくれた母の涙をどれだけ私は知っているだろう。

私は今、こんな体になって、各地から「来て、話をするように」言われていますが、私の果たしているなんていうことは本当にどうっていうことのないことです。

もしも私の話していることに小さな意味でもあるとするならば、それは失うまで気づくことの出来なかった愚かな人間の悲しみと反省を込めて、失う前の人たちに失ってしまってからでは遅いんだということを、親も健康も友情も此の世の平和も失ってしまってからでは遅いんだということを、伝えたいということです。 つたない話しをしてきました。どうか皆さんもくれぐれもお体を大切になさって、孤独と不安に震え、生きることに希望を失い。困難を覚えていらっしゃる方々に「いのちの電話」を通して、どうぞ皆さんの愛を注いで下さい、お願いします。

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