社会福祉法人 徳島県自殺予防協会
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「人の間」で、55年

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奈良 いのちの電話
相談役 中山 文夫

おことわり

今年も自殺予防運動の普及啓発を目的にチャリティ講演会「生きる」が県下三カ所で連続開催されました。以下はその講演要旨です。

▼ 11月24日(金)夜
阿南市文化会館夢ホール

▼ 11月25日(土)昼
徳島県教育会館大ホール

▼ 11月26日(日)昼
三好市池田総合体育館

「人の間」で、55年

中山文夫さん顔写真

敗戦の翌年の秋にGHQの要請によって開設された、生活困窮者緊急援助施設(1948年児童福祉法施行とともに養護施設になった)奈良県の宝山寺愛染寮に、縁があって1950年の春から児童指導員の任に就かせて頂きました。

戦時中にこの施設の創設者(高松市出身)と、私の長兄とがそれぞれ招集された後、諜報将校養成校の陸軍中野学校で同期になって起居をともにしていて、戦後も親交を重ねていた関係から、弟の私が「是非とも施設での暮らしを」と切望したのです。何のためらいもなく門をたたいたのは、次のようなことがらが私から離れなかったからです。

1つには浜松の海沿いの村に生まれ育った私は、10人きょうだいの3番目でした。騒々しく暮らすうちに、枕を並べて寝息をまじり合わせていた生活が身にしみていたのです。2つには、空襲の激しかった浜松の町かどで(農村にあった私の生家もB29が落とした爆弾で全壊)猛火に耐えかねて防火水槽の水を求めてのことでしょう、少年少女の黒い焼死体の重なりを目にしたことです。3つには、戦後東京近郊で暮らしていた折々に、上野や浅草の焼け跡や闇市にたむろしていた家なき子たちの汚れた姿や、それでいて丸く見張っていた黒い瞳に接したことなどです。

大阪と奈良の間にある生駒山のふもとの愛染寮には、大切な人や家を奪われ、悲しみを一方的に植え付けられた、30数名の少年少女が10名弱のおとなと起居をともにしていました。「戦争の最大の被害者は子供たちである」
ことを実感しました。しかし、誰に対して抗議することもできないどころか、少しでも自給自足する手立てをとるよう努めなければなりませんでした。

昼は、山合いの狭い土地を耕して野菜を作り、鶏やアヒルや山羊を飼い、谷川から水を引いて飲料水や風呂水に当てたり、食材や衣類も洗いました。山の木を倒して薪木にわって、炊事場や風呂場、ダルマストーブのもとに運びました。隔日毎に数回、駅から2キロメートルほどの(車の通れぬ)凸凹の山道を、20キロほどの重さの配給物資などを背負って運びました。直ぐ溜まる大量の糞尿の処理には、農家出身の私でも辟易しました。しかし、児童も年齢相応によく頑張りました。

夜は、昼の疲れで眠いのを押さえながら復習や予習につき合ったり、テレビなどない時代でしたのでお話や朗読、紙芝居、影絵や幻灯などよくねだられました。

ところで、そのころ大いに助かったのは、戦後直ぐにアメリカの宗教や教育や労働などの13団体が一緒になって、第2次大戦後のアジアの国々の生活困窮者を救済する目的で組織された、LALA物資(主として食料や衣類など)の、全くのボランティア的援助があったことでした。そして、それらの物資が施設の子らに間に合うように、種々工夫してくださる宝山寺の信者や職員の家族の奉仕が展開されたことでした。

そのころ新しくスタートした民生委員の有志が、慰問などによって施設の内容を知り、物品の持ち寄りが始まりました。私どもは、新しい自由・民主主義を土台とした隣保互助活動の芽生えを感じさせてもらいました。そして、「施設は社会のお荷物、施設に住む人たちは地域の厄介者」という偏見をうち破って「施設は社会に欠かすことのできない大切な資源」であり、「地域の児童福祉や社会福祉を増進するための拠点が施設である」というように考えるのが妥当である、と思い改めるようになりました。私どもは、施設の子たちの通学する小、中、高校のPTA活動に積極的に参加して、学校の先生や保護者の皆さんと交流を密にしていきました。施設の建物や設備の品やプールなどを開放して、地域の人々の便をはかるように努めました。

1954年当時、1万人ほどの人口を擁していた生駒町は、大都市大阪に隣接する郊外のベットタウンとして、人口急増の兆しが顕著でしたが、公私の保育園が皆無で私立幼稚園が1カ所あるだけでした。きれいな空気と水を求めて移り住んでくる新住民は、当然のように保育園設置のニーズを高めていきました。

結局、それまで児童福祉施設を3カ所(養護施設のほかに児童厚生施設と奈良市内に保育園を設置)運営してきた私どもの法人が、近鉄生駒駅に隣接する町有地の提供を受けて、乳児から6歳までの120名定員のいこま保育園を設置経営することとなりました。(ちなみに、生駒町が生駒市になった現在、奈良県3番目の人工13万人を抱え、保育園は公私の9カ園になっています。そのうち、いこま保育園は増改築を重ねて定員250名の保育園となっています。)

愛染寮児童指導員の私は、いこま保育園建設当時から雑務を兼務していた関係もあって、1967年に園長に任命され、以来1995年に65歳で定年退職するまで28年間、その任に就いていました。1954年に保育園を新設してから、私が退職するまで41年の歳月が経ちますが、いこま保育園が愛染寮のように山の中に位置するのとちがい、駅近くで町の中心部にあったのと、通園する子たちが町のほぼ全域にわたっていたので、園が地域の児童福祉を推進していくためには、広く且つ多様に機能してゆく必要があると考えました。そのためには、地域の人たちとさまざまに関わって、人の間の大切さを感じさせてもらうことを、最優先にしなければなりません。

町で初めての園を拠点とする子ども会やボーイスカウトを組織し、町内清掃やラジオ体操、各種募金活動を保護者とともに進めました。町の文化サークルの会場にも当て、子ども夏まつりを県民グランドで開催して、現在の生駒市主催の約3万人参加の「どんどこ祭り」の基礎となっております。

保育園が、その事務所を提供して1954年の秋に発足した生駒「小さな親切」運動の会も、奈良県下で最初でした。市内の有志が寄り合ってのものでした。その中には卒園児や在園児の保護者が多数おられました。

今や県民運動として組織、活動していますが、東京大学学長だった茅誠司先生が1963年に、同大学の卒業式で立身出世の道にふれずに「小さな親切」への思いを説かれたのが、その始まりです。「小さな」は「やればできる」ということです。「陰徳あれば必ず陽報あり」ですが、これを運動として互いに声を掛け合って行わなければならないほど、モラルが低下していることを憂えた上での運動でした。ただし、「小さな親切、大きな迷惑(大きなお世話)」などと、皮肉っている人も少なくないようです。

1977年ごろ、それまでに私どもの法人がこれまた地域の人々のニーズに応えて新設した、乳児院や特別養護老人ホームをふくめた福祉施設ボランティアや、小さな親切運動の委員の有志らが、カウンセリング研究会を作っていました。そのグループは(「ただいま話し中」という記念図書の付記「奈良いのちの電話5年のあゆみ」のプロローグで、私が慨述しましたように)次のような行動を起こしました。

『あまりにもモノ中心のぎすぎすした人間関係が気になって、ココロに視点を当てた各種の情報を交換したり、人の間の交流をスムーズにするための学習を重ねていくうちに、互いの身のまわりに多くの問題が渦巻いているのに、驚きの目を見張った。その中でメンバーが強い関心を集めたのは「向こう三軒両隣り」の相互扶助の思いが働いていれば、比較的容易に解決するような問題に悩んでいる多数の人たちのことであった。そのような人々の何かの役に立つことができないだろうか、悶々としている胸の内を進んで解放し、一緒に考え合えるような場をもてないだろうか、などを鳩首模索していったのである。その結果、浮かび上がったのが、誰もが日常容易に利用することのできる電話の存在であり、その機能であった。電話というマスメディアを介在させての相談という行為の是非や功罪論から、効果が予測されるならば、それはどうすればよいのかの方法論にまで及んだ。そして数旬がすぎ、奈良に電話相談を可能にならしめるための準備委員会が発足したのである。』

そして、2年ほどの歳月をかけて、1979年11月1日近畿で2番目、日本で8番目、1日24時間体制では3番目の電話相談センターとしてスタート。以来「眠らぬ電話」を保持しながら、究竟するところ自殺予防につながる電話が古都奈良の平城宮趾に隣接する西隆寺の跡地に機能しつづけて、この10月31日で満27年に及ぼうとしています。

私の場合、開局以来電話相談ボランティアとして就務し、昨(1905)年度末75歳の定年で退任するまで、25年間半務めさせて頂きました。(この間に考えたり、感じたりしたことを、昨年春に出版した拙著「間合」に掲載しましたので、これを省きます。

以上述べましたとおり、奈良の地に移って主として児童福祉施設職員として従事すること45年。「小さな親切」運動に関わること30年。「いのちの電話」相談員として就務すること25年。それぞれ重複する歳月を除いて満55年、「人の間」で人間らしく生きることを求めて,往ったり来たりさせて頂きました。

私は乳幼児や児童、その保護者、仲間、友人、知人、さらには悩みを訴えてくる人に対して、関係を結ばせてもらうための基本は、あくまでも「良き隣人」として寄り添わうとしている気持ちが、温かく伝わるように努めることだと思うようになってきました。そして一期一会ともいうべき出会いを大事にしながら、常に相手から学ばせてもらうという気持ちを失ってしまってはだめだ、と自分に言い聴かせてきました。

「この人なら安心して心の内を打ちあけられる」と感じられるような聞き方や、話し方などの接し方に心しなければならないと思うようになりました。加えて、自分を大事にできない人間が他人を大事にできません。「なさけは人のためならず」ということは、「自利は他利につながる」であることを55年間、人の間で学ばせて頂きました。しかし、いずれも不十分なまま今に至ってしまい後悔をしています。これからもさらなる努力をしてまいらねばなりませんが、かって保育園の玄関で、母親と離れるのがつらく、大地にころがって泣き叫んでいた2歳児に対して「つらいやろ、一緒に泣いてやろ!」と寄り添っていった3歳児の姿と真情を、これからも手本にしたいと思っています。

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